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2003年7月27日(日)長崎新聞 (原文のまま)
看護の道 歩み始めた42歳  准看護師 堀川悟さん

コンピューターのシステムエンジニア(SE)として働いたこともあった。転職した会社が経営難となりリストラも経験した。そして今、天職を見つけた。

 島原市北部の田園地帯にある高城病院。午前八時ごろ、デイルームと呼ばれるスペースで入院患者が朝食を取る。その介助をしたり、看護器材の準備をしたりと慌ただしく動き回る看護師たち。准看護師の堀川悟さん(四二)もその一人。穏やかな表情を患者に向けながら忙しく行き来している。
 精神面の疾病を抱える患者が入院する同病院。二〇〇〇年春から勤務している。初めの二年間は部屋の掃除などの雑用が仕事。「准看」の資格を取得した昨春から、症状の重い患者が入る二階フロアを担当している。
 食事介助に始まり、採血、ぼうこう洗浄などを担当。同十一時までの勤務はアッという間に過ぎる。作業に追われ患者とじっくり接する機会は少ない。患者は自分の殻に閉じこもりがちで、その世界になかなか入り込めないという面もある。それだけに、「患者と意思の疎通が取れたときは本当にうれしい」。
 南高有明町の出身。県立島原高を卒業後、いったん地元の飼料販売会社に就職した。そこでコンピューター関連の仕事に興味を持ち、退社して上京。知り合いのつてでソフト開発会社でシステムエンジニア(SE)として働いた。
 三十四歳のとき、実母が独り暮らしだったためUターン。土地家屋調査士事務所に勤務し、その資格試験に挑戦したが失敗。その後就職した事務機販売会社は経営難に陥り、リストラの憂き目に遭った。そんなとき、看護関連の仕事をしていた母や妹が声を掛けた。「最近は男の看護師さんも増えたよ」。迷うことなく看護の世界に飛び込んだ。
 准看から看護師への技術向上を目指して、諫早市永昌町の長崎県央看護学校で送る学生生活がもう一つの顔だ。午前中の約三時間の病院勤務を終えた後、仲間二人とマイカーに乗り合わせて毎日通う。片道四十数キロ、約一時間の道のりだ。
 専門課程看護科の二年生。男性十三人を含む同学年五十三人の平均年齢は二十四歳で、若い男女に交じって学んでいる。授業は午後一時から同五時まで。看護学の基礎から専門を三年間で履修する。学校に夜遅くまで居残って実技の復習をしたり、テスト前は自宅学習に何時間も費やす。
 「薬の成分の作用、副作用を一つ一つ覚える薬理など暗記しなければならないことが多くて大変」と言うが、一年生のときの成績はトップクラスだった。ただ、洗髪などの実技が苦手。「相手に気持ちよく感じてもらえるようにと考えすぎて緊張してしまう」と笑う。
 「気が長く、人に接するのが好きで看護師向き」と自己分析。四十歳を過ぎて仕事と学業に打ち込む毎日を、勤務先の病院や家族らが支えている。「やりたいことをやらせてもらい本当に幸せです」と心から思う。
 以前の仕事では、コンピューターが相手のデスクワークが中心だった。そこでも、仕事に打ち込めば一定の成果が上がった。しかし、何か物足りなさを感じていた。看護の世界に入って、患者の笑顔が返ってきた。その生きた反応が今は何よりの励みとなっている。
 二年後の看護師の国家試験合格が最大の目標。「精神科というと社会的に隔離されたイメージだが、地域に溶け込んでいけるよう少しでも貢献したい」と看護師としての夢を膨らます。曲折を経てようやく見つけた道を前進し続けている。